昭和46年08月01日 特別奉修委員



 お徳を受けた方達の信心を、色々見せて頂きますと、お徳を受けたいと思うて、信心した人はありませんですね。例えばお徳を受ける様な内容のものを、そうしなければおられないと言う人です。そうしなければおられないと言う人が、お徳を受けてある。例えば仏教のお説教の中に、そんな話があった事を思い出したんですけれども。何とかという宿屋の女中さんの、名前は忘れましたが。
 流しの先に味噌こしをこうといてお米やらがね、流しが大変粗末にあるのがある。それを綺麗に洗って自分の食糧は、それだけで過ごされたと。亡くなられた時には何かそれこそ、後光がさす様な雰囲気の中に亡くなられたと。だからそこの町にあるお寺さんの御本尊はその女中さんの、何とかさん観音と言う観音様が祭ってあるという話ですね。お徳を受けようと思うてから、流しの先のお米を頂いたのではないのね。
 恐れ多い勿体ないと言うものが、そうしなければおられなかったからなんです。是は昔いわゆる遊郭のおなごしですけれどもね。やっぱ是は金光様のご信心の方なんです。それにやはり昔は籠の鳥でお参りが出来ない。それで教会までお参りをされる足数をね、数えておいて廓の中の長い廊下を、それだけ毎日お百度踏んでおられた。大変お徳を受けてから、お道の先生にまでなられたという話を聞いた事がありますがね。
 ですからもう本当に教会に参らねばならんとか、こうしなければならんと言う。そうしなければおられん止むにやまれんものがね、私はお徳になりおかげを受ける事であって、お徳を受けるためにこげな修行するというのじゃないんですね。是はおかげを頂く為にと言う修行は是は別ですけれどもね。皆さんの場合特別奉修委員の方達なんかは、お徳を受けようと思うて、特別奉修をなさっておられるのじゃないと思うんです。
 けれどもそれがほんなら本当に、止むにやまれん所からなされなければ、是は形になってしまいますから願う所はです、おかげを受けんならんけんで、特別奉修委員に参加してる訳でもなからなければ、お徳を受けたいと思うて、特別奉修委員に参加しとると言うのでもないのですけれど。けどもそれがその内容がね、只何とはなしにしとるだけでは、やっぱいけん。そこに何とはなしに、教会の中心と成る程しの事の為の特別御祈念が、止むにやまれん思いをなされるところから、そういう生き方ならば、私はお徳を受けるだろうとこう思うですね。
 お互いの信心と言うか心の思いもちと言うか、ゆとりとか豊かといった様なものを、差というものを要るなと、私昨日思ったことでしたけれど。昨日綾部さんがお参りされてからそこでお話される事に、今私が歯が悪いもんですから、毎日卵豆腐を作って下さる。あちらの嫁さんが中々上手だそうです。所がその昨日一昨日のはちょおっと辛かったと言う訳です。私はスメの作り方が悪かったと思うてね、思いよった所が。
 昨日聞いたら辛かった。こらぁ親先生にはちっと辛かち言ったら、夏ですからちった塩辛うせにゃいけませんから、塩辛牛ましたちこう嫁さんが言うたち。親先生のには辛かろうち言うたら、嫁がそう言うわけですね。だから決して悪気じゃなかばってん、そうですかそんなら明日んとは、少し塩を控えましょうと、言やよかつをね、夏じゃから塩辛くした方がよかけん塩したと言うとね、それが私はそげなこつ言いようがあるもんのと、言いもせんけれど、やっぱね色々そういう様な受け方を家の嫁はするですと。
 けれども、それを責めようとは思いませんと言う話でした。そら私も今朝方から、ほんに、お宅のあれを頂いたら、一つほんに塩辛かったつですよね。そら昨日お煮付けも塩辛かった。それで普通でなら、今日んとは辛くて食べられんじゃないかと、私が言うところでしょうが。そすと家内はどげん言うかち言うと、何時もん通りですよとかどうか言うですよ。何時もの通りなら、こげん辛か筈があるもん勝かち。また売り言葉に買い言葉で言わにゃんごたる風にですね。
 だからそれん所をちょっと、こちらがゆとりを持つとですね、向こうがそう有難い風に返事せんならん様に、こちらが言わにゃいかんと思いましたね、昨日は。昨日私は辛かったけれども、辛いとも言わなかったんですよ。どうもこの頃あまり辛いもんが食べれんごとなっとるけん少し甘くしてくれと。ふんほんならこの次から甘くしましょうと、こう言ううんですよ。だから問題はね今日んとは、辛くて食べられんじゃないかと言うたら、何時もの通りしましたがねち。
 何時もの通りしたつがどうしてこげん辛かかち、言わにゃんごつなる訳ですよ。ここへんの所がもう、私はその事を綾部さんに話しましたらね、はぁほんなこて、そげんこちらが嫁が、本当にあのそんならこの次は、そげんしましょうと言うごたる風な言い方をね、せにゃいけませんねと言う事でしたけれども。ちょうどあの陽子さんのお届けを聞かせて頂いたり、野口つぁんのお届けを聞かせて頂いたりしながらね。まぁちょっとゆとりを持たなきゃいかんと思うですね。
 こげん言うたら必ず主人がこう言うのを分かっとる様な事をですね。例えば陽子さんの場合なんかは、ここはこう言うたら、主人があぁそうねと、主人が喜んでくれるような言い方をですね、私はまちっと工夫しなけりゃならん。そりゃもう一途であり本当であり、こりゃもう、親先生が仰ったけん、私はこうしよりますよち言うたら。お前は親父の言うこと聞かんで、親先生の言う事ばっかり聞いてからち言うごたる風になる訳ですたい、陽子さんの場合なんかはね。
 野口つぁん達の場合はもう、それとはちょっと違うばってん、そういうもんをちょっと感じますたいね。お父さんが来て傍におりなさるとに、私昨日あの事を聞いちから思うですたい。お父さんがあげん何でん有難く受けなさるとじゃから、受けてお出でられるから良いですけれども。やっぱ私どんならお前どげなこっでん言うねち言うごたる、言う様な事になってくるのじゃないかと。そう言う所がですね。
 矢張りゆとりと言うかね、信心のゆとりと言うものを、先の方から有難い言葉になって返ってくる様な言い方とか態度があると、私は思うです。だから相手があげな態度を取ったとか、相手があげん言うたと言う前にですね、私はそういう態度に出らせない生き方。しかもそれで難しいならば難しいほど、お取次を頂いてですね、有難い言葉が返ってくる様な言い方。そう言う事を矢張り工夫させて貰わなきゃんばらんなと言った様な事を感じたんですけれどね。
 まぁ是はちっと話がそれました様ですけれども、お互いが矢張りお徳を受けなければ、本当の事にならないと言う事は、皆さん分かっておられます。だからお徳を受けるために、どうじゃなくてですね。お徳を受ける人は、お徳をやらなければおられないほどしの働きをしますね。それが当たり前の事としてしますね。その当たり前の事がですたい、やっぱり今のちょっとゆとりのある生き方とか、あり方でなからんと、矢張りその修行がきついもんになってくる様な感じがするですけれどね。
   どうぞ。